その日の夕飯が終わり、今日も鍛錬に向かおうとしていた文次郎に同じ食卓に着いていた仙蔵が声をかけた。


「文次郎、今夜は部屋に戻った方が良いぞ」


唐突に言われたその言葉に、文次郎は「はぁ?」という顔しか返せない。
自分が行う夜中の鍛錬はもうお決まりみたいなものだったし、それに関して仙蔵が今更何かを言う事もない。
それが今夜に限って「戻って寝た方が良い」だなんて、一体何だと言うのだろう。


「何だ、それは」


溢れ出る疑問を隠す事なく、また共に湧き出る若干の不気味さまで隠すことなく言うと、また同じ食卓で夕飯をとっていた小平太が「あれ?」という顔をする。
ちなみにここには後一人中在家長次がいるだけで、は組の三人は居ない。
早朝から課題を兼ねた校外実習に出ていてまだ戻っていないのだ。


「だから、部屋に戻った方が良いと言っているんだ」


先ほどと変わらない言葉を投げられて、文次郎の眉頭はみるみる内に眉間に寄っていく。


「何故お前が今更そんな事を言うのか理解できん。一体何だと言うんだ」


答えになっていない返事を返されて、文次郎の眉間には深い皺がものの見事に刻み込まれた。


「なぁ仙蔵。文次郎は知らないのか?」


そこに割って入ったのは小平太の声で、隣で食後の茶を啜っていた長次が「そのようだな」と何時もの聞き取り難い調子で呟いている。


「文次郎はここ最近会計委員会や校外演習なんかで忙しかったからな、乱太郎とここ二日ばかりまともに顔を会わせていない。ちなみに私は意図的にあの話をしていないから知らない筈だ」


ニヤリと笑って仙蔵が言えば、小平太が明るく「成程!」と笑った。
これに一段と眉間の皺を深くするのは文次郎で、どうやらこの話に乱太郎が絡んでいるようだと悟れば益々話を流すことなど出来なくなってしまった。
自分とここに居る連中、いや今は乱太郎と一緒に外にいる同期生も含めて、乱太郎の事が特別で何より大事な存在なのだ。


「仙蔵!一体何だと」

「それを知りたいなら今夜は部屋に戻ることだな。このまま秘めておいても良いものを、わざわざ知らせてやったのだから感謝して欲しいくらいだ」

「仙蔵、性格悪いな!」

「このまま秘密にしておきたいが、文次郎と乱太郎が顔を会わせれば直ぐに発覚してしまうしな。それも面倒だから話してやることにした」

「ほほう、やはり性格が悪い!」

「煩いぞ小平太」


僅かに荒げた声で言いかけた言葉を仙蔵に遮られ、結局小平太にその後を持っていかれてしまったので最後までそれを言い切る事は無かった。
そうこうしている内に仙蔵が席を立ち、続いて小平太も立ち上がる。
連れ立って歩き出す二人の後に長次が立ち上がると、眉間の皺もそのままの文次郎に「取り合えず仙蔵の言う通りにしておけ」と何時もの調子で声をかけて自分も食堂を出て行ってしまった。
残された文次郎は何がなんだかちっとも分からないままだったが、それでも何時までもここにいる訳にもいかないと取り合えずそこを後にする事にしたのだった。


「全く、一体何だと言うんだ」


長次の一言もあり結局仙蔵の言う通り部屋に戻った文次郎だったが、その実未だに釈然としない気持ちでいた。
既に風呂も済ませていて、手持ち無沙汰も何だからと会計委員会の仕事である帳簿なんぞを引っ張り出してみたがどうも進まない。
同じ部屋の中では仙蔵がいやに機嫌が良い様子で書物を広げていて、それが余計に文次郎の集中力を欠いて算盤を弾く指も筆も一向に進まなかったのだ。
こんな事ではいけない、鍛錬が足りないと十キロ算盤を抱えて外に飛び出したいのは山々だがそれでは本末転倒であるし、何よりこれに乱太郎が係わっているようなので何も知らないまま飛び出していくのも何だか……。


「煩いぞ文次郎」


ぐぐぐ、と何時の間にか唸る声が出ていたようで仙蔵にピシャリと言われた。
瞬間グッと腹に力が入る。
大体誰のせいでこんな気分になっていると思ってるんだと頭の中を過ぎ、実際それを口にしようとした時だった。
ととと、と良く聞き慣れた足音がこちらに向かってやってくるのが聞こえてきた。


「来たな」


その音に仙蔵が笑みを浮かべると、もうすぐ開けられるであろう部屋の戸の前に立った。
そして足音が止まり、その人が戸を開けるであろう瞬間を狙ったように仙蔵がスラリと戸を開けてみせる。


「わ」


思わぬタイミングで戸が開けられ、そこに立っていた人物が驚いたように声を上げた。
するとそこに現れた人物の姿に、文次郎は大いに戸惑いを覚えた。


「ら、乱太郎」


そこに立っていたのは紛れも無く猪名寺乱太郎その人で、風呂上りなのかほこほことした頬としっとりと濡れた髪をそのままに眼を真ん丸に開いてこちらを見ていたのだ。


「ふあ、ビックリした」

「おかえり乱太郎。課題はどうだった?」


そんな文次郎を余所に、今日一日彼の姿が見られなかったからだろうか、仙蔵の「乱太郎専用」である柔らかな笑みと甘い声が一層濃くなってその人に届けられる。


「ああ、また怪我をしたな」


顔やら腕やらそこら中に見られる新しい傷を見つけて仙蔵が言うと、乱太郎は困ったような顔をして笑った。


「課題は問題なかったんだけど。帰りにちょっとドジってね」

「しょうのない奴だな」


丁度頬骨辺りに出来た擦り傷を親指の腹で優しく撫でながら、言葉とは裏腹に優しく微笑む。
ただそこには少し心配そうな色が見えていたから、乱太郎は「大丈夫だよ」と笑った。


「忍者なんて傷の絶えないものでしょ」

「そういうものでも無い」

「えー」

「乱、あまり怪我するな」

「はぁい、気をつけるよ」


仙蔵が乱太郎の事を「乱」と呼ぶのは主に感極まった時など心の動きが激しい時で、今は朝から会えなかった可愛い子があちこちに怪我をして帰ってきたことが心底心配になってしまったからなのだろう。
普段乱太郎の阿呆さ加減に大声を上げたりすることが多いものの、基本的に仙蔵は乱太郎に弱い。
弱くて心配性で甘ったるい。
そんなんで忍者がやっていけるのだろうか、とは彼自身も思っている事だった。


「あ、文さん!今日はお部屋に居るんだね」


繰り返し頬を撫で付ける仙蔵の手に自らの手の平を当てて、乱太郎は部屋の中でポカンとしている文次郎に声をかけた。
その声にハッと我に返った文次郎は自分の名前を呼んだその子をまじまじと見つめる。


「どうしたんだこんな時間に。髪も濡れたままで、早く布団に入らなければ体が冷えるだろう」


仙蔵同様、この文次郎も乱太郎に甘かった。
今はほこほこと湯気があがる体もその内すぐに冷えてしまうだろう。そうなれば乱太郎が風邪をひいてしまうかもしれない。
普段ならそんな輩には「鍛錬が足りん!」などと怒鳴り散らして周りに止められる所だが、ここ二日殆ど顔を会わせる事のなかった可愛い子の姿にそんな言葉はどこかに吹っ飛んでしまっている様だった。


「え、わたし今日はここで寝るって。ちょっと仙ちゃん、ちゃんと言っておいてくれた?!」


先ほどからずっと頬に手を置いて、蕩ける視線で自分を見ている仙蔵に問うと


「夕飯の時に言ったが」


とだけ返ってくる。
するとそれに


「嘘つくな!今日は部屋に戻れとしか言ってなかっただろう!!乱太郎が来るなんて聞いていないぞ!!」


と文次郎が声を荒げる。
それを聞いた乱太郎は「やっぱり」と溜息をついて仙蔵の顔を覗き込んだ。


「仙ちゃん、ちゃんと言っといてよ。『私が言っておく』っていったから任せたのに」

「すまんすまん」


言われた仙蔵は全くちっともすまないと思っていない調子で言うと、なにやら禄でもない事を思いついた時の笑みを浮かべて乱太郎の顔に自分の顔を近づける。
それはあとほんの少し近付けば唇が触れてしまいそうなところまで行って


「何してる」


という文次郎の声に止められた。


「ッチ」

「舌打ちするな!」

「もう、何してるの二人とも。文さん、わたし今日ここにお邪魔する予定だったんだけど、良いかな?」

「……まぁ、詳しい話はまた後で聞くか。勿論構わないぞ」


ちょっと考えられないような至近距離に仙蔵の顔があるにも係わらず、乱太郎は相手の行動に全く疑問も持たない。
それどころか一緒に寝ても良いかと文次郎に問うと、良承の返事を貰ってにこにこと笑っている。
これが猪名寺乱太郎の怖い所だった。


「わーい!あ、じゃあお布団持ってこなくちゃ」


そんな彼は文次郎の返答に飛び上がって喜ぶと、早速自分の寝床を用意しなければとクルリと体を返す。
しかしそれを軽く受け止めて、仙蔵が「その必要はない」ときっぱり言い放った。


「え、だってここには仙ちゃんと文さんのお布団しかないでしょ?わたしの寝る所がないじゃない」


二人の部屋をキョロキョロと見回してから乱太郎が尤もな言葉を口にすると、仙蔵は何故か勝ち誇った顔で


「私の布団で寝れば良い事だろう」


とのたまってくれた。


「なっ?!せ、せん、仙蔵!お前何を言っているんだ!!」

「何って。ああ乱太郎、今夜は私と同じ布団に入ってくれるな?」


あわあわと驚きで言葉にならない文次郎と、それをほぼ無視して腕の中の乱太郎に問う仙蔵。
それに少し首を傾げた乱太郎は


「仙ちゃん狭くない?仙ちゃんが良いならわたしは構わないけど」


とこれまた爆弾みたいな発言をして文次郎を心底驚かせる。


「よし、では決まりだな」

「決まりではない!仙蔵お前何を言っているのか分かっているのか?!乱太郎もそんな事を気安く了承するな!!」


いよいよ文次郎が青筋を立てると、仙蔵は「あー煩い」とまるで煩わしい羽虫でも見たような顔をし、乱太郎はますます首を傾げてしまう。


「わたし、仙ちゃんや文さんだったら一緒でも全然良いんだけどダメだったの?」

「駄目ではないよ」

「だ、駄目だ!」

「えー、どっちなのぉ?!」


仙蔵が良いと言えば文次郎が駄目だと言う。
これではどちらと判断したら良いのか分からなくなってしまう。


「ええい、煩い文次郎め。ならばお前も一緒に寝てしまえ」

「っは?!」

「乱太郎、文次郎は仲間はずれが嫌なんだそうだ」

「ああ!なぁんだ、そうだったの!イヤだな文さん、わたしが文さんを仲間はずれになんかする訳ないじゃない」


こうなると乱太郎が「やっぱり布団を持ってくる」と言い出しかねない。
それを阻止し、可愛い子と同じ布団で寝るという願望を叶えるために仙蔵はとんでもないことを言い出した。


「な、なに」

「ね、文さん、一緒に寝ようね」


にっこり。
可愛いとしか表現のしようが無い笑顔で言われ、文次郎は何も言えなくなってしまう。
それは確かに乱太郎と同じ布団で寝られたら心底幸せである事には間違いないが、しかしそれはお互いの想いが通じ合ってからの事で、何より二人きりの方が……云々かんぬん。
そんな風に巡らせて言葉も紡げぬ文次郎を余所に、仙蔵と乱太郎はさっさと衝立を隅にどかして二重ねの布団をズズッとくっ付けにかかってしまう。


「乱太郎、布団を少し重ねておくぞ。そうすれば隙間が気にならないだろう」

「わたし真ん中なの?」

「当然だ、私の隣に文次郎が来てどうする」

「うん?」


そしてさっさと布団をくっ付け終わると、未だにぶつくさ言っている文次郎を放って乱太郎の髪を拭いてやると「さて」なんて言いながら仙蔵が先に布団に入った。


「ほら、乱」

「お邪魔しまーす」


仙蔵が掛布団を僅かに持ち上げて乱太郎を招き入れる。
そこにするりと潜り込んだ乱太郎は、「えへへ」と照れたような笑みを浮かべた。
そしてこの部屋のもう一人の住人、文次郎に視線を向けると


「文さん、寝ないの?」


と声をかける。
呼ばれた声に文次郎が顔を向ければ、いつの間にやら同室と可愛い子は同じ布団の中に入っていて、その子が上目遣いでこちらを見つめているではないか。
同室は自分に興味が無いのだろう、隣にいる可愛い子にほぼくっつくような至近距離で眼を閉じて……はいなかった。
薄目を開けてさも面倒臭そうにこちらに視線を寄越している。
そこには「早くしろ。でなければ乱太郎が眠れないだろう」という文句がありありと見てとれた。


「う、いや」

「もしかして鍛錬に行っちゃうの?」

「いや、だから」

「今日は行っちゃヤだ。ね、一緒に寝よう?」


布団から少しばかり出された乱太郎の手が、自分を呼んで伸びて来る。
白い指先が誘う仕草に、文次郎はクラクラと眩暈を覚えて額を押さえた。


「ね、早く」


この一言に紋次郎の心はいとも呆気なく落ちた。
伸ばされた指先に自分の指先を僅かばかり乗せて、それが引っ張られるのを心地よく受け入れてしまったのだ。


「はい、文さん」

「あ、ああ」


乱太郎が招き入れるままに彼の左隣に潜り込むと、ポンポンと掛布団を叩いて満足そうに笑う顔が極々間近で見える。


「あったかいね」

「そうだな」

「う、む」


幸せの絶頂にいるみたいな顔と声で、ほにゃりと言う乱太郎。


「また一緒に寝られる日が今から楽しみになっちゃうね」

「そうだな」

「う、……は?」


今何と?乱太郎から発せられた言葉に文次郎は耳を疑った。


「あ、わたしが寂しいって言ったからね、皆が一緒に寝てくれることになったんだよ。文さんと仙ちゃんとはまた二日後なの」

「これが、また?」

「今度は乱太郎の部屋に行くのも良いかもしれないな」

「うん、こへちゃんとちーちゃんはわたしの部屋に来てくれたんだよ。仙ちゃんと文さんも来てくれると嬉しいな」

「もちろんだ」

「は、」

「文さんも、来てくれるよね?」

「あ、う」

「ねぇ、文さん」

「う、うむ」


結局文次郎の戸惑いなどまるで感知する事なく、乱太郎はちょこりと首を傾げて次の約束を取り付けてしまった。
しどろもどろな文次郎の向こう側で、仙蔵が少し面白くなさそうな顔をしているのが見える。


「私だけが行ってもいいがな」

「おい、そんなの許されんぞ」

「何だ、あんなに恥ずかしがっていた癖に。むっつり助平だな文次郎」

「殴るぞおい」

「もー、喧嘩はやめて、仲良く寝ようよ」


口喧嘩を始めてしまう二人に、乱太郎がめっ!と静止をかける。
その可愛い仕草に再びクラリと眩暈を覚えて、二人は僅かに乱太郎に体を寄せた。
勿論文次郎は必要以上に照れながらであるが。


「さて、では明日も早いからな、乱太郎の言う通りそろそろ寝よう」

「そうしよー」

「うむ」

「乱太郎、おやすみ」


そう言って仙蔵が乱太郎の額に唇を寄せたが


「何してる」


寸での所で文次郎の手がそれを止めたのだった。


「ッチ」

「舌打ちするな!」

「もー、寝るんでしょ二人とも」


結局、あと暫くこんなやり取りが続いて中々眠れぬまま夜は更けていったのであった。



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