※六年生乱太郎さんですが、時間軸は独立です


雨が降っている。
もう何日も止むことがないまま、今日で六日目だった。
それ程大粒ではない雨は、ともすれば子守唄のように聞こえる優しい音で一日中学園を包んでいる。
座学が多い下級生達にとっては辛いものだろうか、それとも夢現を彷徨わせる酷く心地良いものだろうか。
ただ、今この空間にいる二人にとって、この雨はとてつもなく狂おしいものに他ならなかった。
雨の降る空間に「狂おしい」とは一体どういう事なのか、それは二人の間だけにしか分からないもどかしいモノを、敢えて言葉にするならばソレしか的確に表せるものが無かったからに過ぎない。


「失礼します」


そう言って背後から伸ばされた三之助の指が、乱太郎の剥き出しの右肩にある傷に優しく触れた。


「まだ痛みますか?」


手渡された薬を塗り込めながら、低くも高くもない、静かな声でそう尋ねる。


「ん、もうほとんど。動かした時に少しだけ。でも大丈夫」


問われた乱太郎は、六日前から続けられているこの行為に僅かに瞳を伏せる。
薬が塗りやすいようにと左肩に纏められた髪が、動きに合わせてサラリと落ちた。


「乱太郎、先輩」

「――……」


ここ数日で、彼がそう呼ぶのはもう合図のようなものになっていた。
返事を待つ事なく、彼の唇が傷からほんの僅か、本当に僅かに離れた場所に落とされる。
その間、乱太郎は何も言わない、三之助も何も言わなかった。
雨のせいなのかやけに薄暗い空間の中、ただ唇を落とす三之助に乱太郎はどこか遠い所を見つめるようにして涙を堪える。
何故いつも涙が溢れそうになるのか、乱太郎自身にも分からないままだ。


『乱ちゃん先輩』


そう呼ぶ彼も


『乱太郎先輩』


そう呼ぶ彼も、確かに同じ次屋三之助という人間なのに、その中身が全く違ってしまっているようで切ない。


「この傷、跡になりますか」


音も立てず、静かに唇を離した三之助は冷たい指先で傷をなぞる。
薬が塗られたばかりのそこは一際濡れたように輝いていて、三之助の胸に波紋を広げた。


「そう、だね。小さい傷だけれど、少し深いみたいだから」


ポツリと零すように言った乱太郎に、三之助はするりと指を滑らせて肩の形を辿った。



六日前、雨が降る森の中を駆け抜けていた時だった。
雨でしとどになった自分の目の前に、この先輩がヒラリと現れたのだ。
そして「こんな所にいたの、風邪引いちゃうよ。早く帰ろう」と、その掌を伸ばしながら言う。
何時までも帰らない自分を心配して探してくれたのだと、その顔を見ればすぐに分かった。


「雨のせいで足元が悪いから気をつけて。帰ったらすぐお風呂に入って、それから医務室に寄ってね」


少しばかり前を行きながら、自分を気にして振り返ってくれる。
そんな小さな仕草に三之助の胸は小さな波を立てた。


「は、―いっ?!」


その時だった、目の前が突然グラリと歪んで霞んだのだ。
足に力が入らず、傾いていく体を立て直すことも出来ない。
そのまま地面に伏せようとした瞬間


「三之助くんっ!!」


自分の名前を叫びながら、細くて小さい体の先輩が自分を抱えて倒れこんだ。
しかしその倒れた場所が悪かったらしい、「ぐっ」と小さく呻き声を上げたかと思うと、自分を抱えている腕とは反対の掌で右肩を押さえる。
その指の間から真っ赤な液体が一筋流れたのを見て、三之助は全身の血液が一気に下る音と冷たさを感じた。


「ら、乱ちゃ、先輩」

「いけない、ここ、罠地帯だっ、たね。――う、っぐゥ」


短く息を吐き、痛みで痺れる腕に力を込めて一気に体を起こす。
ズルリと音が聞こえてきそうなほどに深く肩口に刺さっていたのは、鋭く尖らせた数本の細い枝だった。
乱太郎は血で濡れたそれらを苦無で切断して懐にしまうと、辺りに散った血液を土や葉を被せて隠した。
例えここが学園内の森の中とはいえ、自分が負傷した痕跡を残すのは利口なやり方とはいえないからだ。
その間も傷を追って力の入らない筈の体で自分を支えてくれているその人に、三之助は胸が張り裂けそうな程の後悔と謝罪を声にならない声で叫び続けた。


「すみません、すみません、乱ちゃんせんぱ、乱、太郎、先輩」

「大丈夫だから。ね、落ち着いて」


涙も出ない程に喘ぐ三之助に、乱太郎はそれでも優しい笑顔を向ける。


「三之助くんはこの雨に打たれて思ったよりも体力を消費してたんだよ。風邪、ひいちゃったかな」

「すみませ、すみません」

「ほら、大丈夫だから。こんなの六年生になるまでに何回も経験する事だもの、全然平気だよ。三之助くんはちっとも悪くない、ね」


引き絞った声で繰り返す三之助が最後に見たのは、そう言って笑う乱太郎の顔だった。


次に三之助が目を覚ました時、自分は医務室の布団の中で、隣には目を閉じている乱太郎の姿があった。
傷に障らないようにとうつ伏せに寝かせられ、真新しい包帯が巻かれたその姿は痛々しいとしか言いようがない。


「すみませ、」

「大丈夫だよ」


思わず謝罪の言葉を口にすると、それを優しく遮るように乱太郎の声がした。


「三之助くん、謝りすぎ」

「でも」

「アレはわたしが悪いの。最上級生ならその場の状況確認が出来ていなきゃいけなかったのに、それが出来なかったんだもん」

「そんなの、あんな急な状況では」

「それが出来なくては忍にはなれない。そういうものだよ」

「・・・・・・」

「ああ、違うの。三之助くんを落ち込ませたい訳じゃないんだよ」


唇を噛んでしまった三之助に、乱太郎は焦ったように言葉をかける。
その際に腕を動かした事で傷に障ったのだろう「あいてて」と軽く眉をしかめた。


「それ、」

「ん?ああこの傷?包帯なんて巻く程大袈裟なものじゃないんだけど、いさちゃんがどうしてもって聞かないから一応ね」

「これからの治療とかは」

「塗り薬を一日二回、患部に塗って布を当てておくくらいかな」


そう言って顎の下で手を組み直す乱太郎に、三之助は彼に見えないようにもう一度唇を噛む。


「それ、私にやらせて下さい」

「えぇ?毎日だよ?二回もだし」

「良いんです。お願いします」


そうして、その日から一日二回、乱太郎の傷に薬を塗り込めるのが三之助の約束になった。
これまでの六日間、欠かすことなく続けられているそれだが、二人にとってとてつもなく大きな変化が起きたのは三日目の夜の事だった。
少しは元の調子が戻ってきたのか、あの日から「乱太郎先輩」という呼び方に変わっていた三之助が、元のように「乱ちゃん先輩」と呼ぶことも多くなってきた頃。
雨のせいで月も無く、炎の灯りにうすぼんやりと照らされた乱太郎の肩に指を置いて、それまでのどれとも違う声で唐突に彼が


「乱太郎先輩」


と呼んだのだ。


「、―――」


乱太郎の返事を聞く事もなく、三之助はその肩に静かに唇を寄せてきた。
その後静かに唇が離れていくと、渇いた指先が傷を撫でるのを感じて乱太郎の体が僅かに震える。
傷を優しく撫でた指が、今度はスルリと肩の曲線をなぞっていった。
想い人を呼ぶような甘さはなかった、しかし確かにそこに込められている何かを感じた乱太郎は、彼の呼び掛けに返事は出来ない、とどこかで思ったのだった。


それ以降、朝と夜、乱太郎の部屋にやってきて薬を塗り込める三之助は、かかさず「乱太郎先輩」と名前を呼ぶようになる。
そしてそれに自分は決まって返事をしなかった。
それでも他には何も言わず、ひたすら同じ場所に落とされる唇。
まだまだ内に潜んでいるであろう無邪気さなど一切排除して、静かに紡がれる己の名、それに乱太郎はいつの頃からか涙を堪えるようになっていた。
そして今、いつもと同じようにその合図があって、同じように唇で触れられた。
跡になりますか、という問いにポツリと答えた乱太郎は、その間にも肩を滑る指に思わず己の指を伸ばしかける。
返事さえしない自分は、当然これまで自分の肩をなぞる彼の指に触れたことなど一度も無い。
しかしそれはピクリと乱太郎の指先を動かしただけで、とうとうその場から動くことはなかった。
その時だ


「乱太郎先輩」


これまで二度は呼ぶことのなかった三之助が、あの声でもう一度自分の名を呼んだ。
瞬間ギクリと体を強張らせると、何時もとは違う、うなじに限りなく近い場所に唇を寄せられる。
それに思わず喉を詰まらせていると、一度離れた唇がもう一度、今度は耳の真後ろに寄せられた。


「さ、」


乱太郎が思わず彼の名前を口にしようとしたその時、三之助の指がスルリと右肩を越えて伸びてきた。
彼の右腕に抱かれるような形になった乱太郎は、戸惑いを隠せずに小さく体を震わせる。
そんな自分の様子に三之助から小さく息が零れるのを耳元で聞いて、知らず白い首筋を赤く染め上げてしまう。


「乱太郎先輩」


そのまま三度目にそう呼ばれた時、とうとう乱太郎は自らの右手を三之助の回された右腕に重ねてみせた。
その瞬間、回されていた彼の右腕に力が篭る。
引き寄せられるように三之助の体に背中を預ける形になると、自然と彼の唇が耳に押し付けられる形になってしまう。
羞恥からなのか、乱太郎の行き場の無い左手がキュ、と小さく拳を作る。
それを優しく解くようにして、伸ばされた三之助の左手が乱太郎の指と絡んで結ばれた。
それによっていよいよ身動きの一つも取れなくなった乱太郎の耳に、三之助は一度唇を噛んでから小さく囁きかける。


「乱太郎先輩」

「あ、」

「乱太郎先輩」

「―――っ」


繰り返し囁かれる己の名に、乱太郎はもうこれで何度目になるかも分からないが必死に涙を堪えていた。
先程まで彼がそうしていたように、下唇をキリリと噛んで目を伏せる。
ここにきて一気に激しくなったのか、ザァザァと響く雨音がやけに耳に煩い。
しかし


「貴方が好きです」


そう、雨音に紛れてしまいそうな程に低く柔らかな声が告げたのを聞いた途端、他には何も耳に入らなくなってしまった。
噛んでいた唇も忘れ、伏せていた瞳に力が入ったかと思うとポタリポタリと涙の粒が落ちていく。


(ああ……)


好きです。と抱きしめる腕に力を込める三之助に、乱太郎は何故か止まらない涙を感じて瞳を伏せたのだった。


雨は止まない、まだ、もう少し。





雰囲気で、お願い、します!
乱太郎さんは三之助の事嫌いじゃない。でも何か悲しかった。
可愛い後輩が急に大人になってしまった事に寂しさや戸惑いを感じてるとか、ちょっと複雑な感じ。
三之助はずっと乱太郎さんが好きだった。
何時もと違う反応をしてくれた乱太郎を感じて、どうしようもなくなっちゃったのでしょう。



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