自らの内に闇のフィブリルが眠っているというのはどんな気持ちなのだろう?
母親の自我を侵食し、憎しみと怒りに縛られた狂人へと変貌させたその力。
幾度となく続く狂った実験に耐え、それでもその人は母親だからと憎みきれないやるせなさ。
いっその事このまま自分の瞳が永遠に閉じてしまってくれたらいいのにと、自分が生きていることすら母親を苦しめる要因になっているのではないかと、悲しい自虐の中に自らを放り込むその痛み。
眼の前にいるその人は、愛する母親であって母親その人では無い。
もう優しく頭を撫でてくれることも、安らかな夢をと額に口付けてくれることも、寒さに震える体を抱きしめて優しい温もりで包んでくれることも無い。
そう、もうありはしないのだ。
そんな悲しい恐怖に置き去りにされた少女、それがこの愛しい少女だなんて…。
運命は残酷だ…。


『おのれ…セイファート!!!』


「メルディ!メルディの言葉が分からないよ!!」

「メルディ、しっかりしろメルディ!!」


闇の力に飲み込まれていく彼女を見て、初めてこの力が本当に怖いものだと知った。
闇の力と光の力、極光とはこんなにも危ういものなのだと。
神に与えられた力はこんなにも苦しいものなのだと。
そして、どんな偉大なものに与えられた力でも救いきれないものがあるのだと、苦しみもがく彼女を見つめながら思った。


「人体実験?!」


ガレノスから告げられた真実に、思わず鳥肌がたった。
実の娘に人体実験を繰り返し、果てに彼女の中に闇の極光を目覚めさせた…。
それが彼女の実の母親?


―――狂ってる。


自分の娘が壊れていく様を目の当たりにして尚、その身体に闇の極光を浴びせ続けたというのか?


「メルディ…」


彼女の笑顔が浮かんでは消えていった。
どんな気持ちでこの旅を決意した?
どんな気持ちでこの戦いを決意したんだ?
決して泣かなかった彼女の姿が痛々しく瞳に浮かび、ほんの一瞬眉根を寄せて表情を歪めるメルディを思い出して愕然とした。

そうだ、彼女は何時も耐えていた。
悲しみを、切なさを、悔しさを、胸を切り裂く辛い痛みを。
何時か迎えなければならない自分の母親との戦いに、ジッと耐えて、耐えて、そしてここまで来たのだ。


「メルディ、独りで知らねぇ世界に来るなんて恐かっただろ?」


静かに夜の闇に包まれようとしている部屋の中、ただ瞳を閉じて小さく呼吸を繰り返す少女の前髪に触れて呟いた。
一瞬の身動ぎはあったが、彼女が眼を覚ます気配は無い。
細く頼りなげな身体はすっかり生気を失い、ただただぐったりとベッドの上にその身を横たえるばかりだ。
年齢に見合わぬその幼い風貌が、今は一層痛々しく見えた。


「リッド、ここに居たの」


取り敢えず夕飯の支度をしてくるねと一旦キッチンへと消えていたファラに、小さな声で呼び掛けられた。
半分開いたままになっていたドアから暖かな光と夕飯の良い香りが入り込んでくる。
差し込む光が柔らかなランプの明かりで良かったと頭の隅で思った。
セレスティアの幻想的な明かりも嫌いでは無いが、今はこの包み込むような火の明かりが恋しかったから。


「キールは?」


ファラが自分の横に立つのを待って、どこにも姿の見えない彼の所在を確認してみた。
実際キールが何処に居るのかが気になっていた訳ではないのだが、思ってもいない事でも口にしないと重い沈黙が訪れそうで嫌だったのだ。


「薬草の調合してる。メルディの身体かなり衰弱してるだろうからって。ほんと、優しくなったよねぇ」

「そっか。まったく、出会った頃のアイツからは想像できねぇよな」


メルディの前髪を梳く指はそのままに、ファラの言葉にふざけて見せる。
しかし、意に反してファラのクスクス笑いもリッドの少しふざけた言葉も少しずつ小さくなってやがて消えてしまった。
2人の視線の先にはただ深い眠りの世界にいるメルディがいて、その彼女が小さく唸り声を上げるたびに眉を寄せている。
夢の中でさえ彼女は安らぎを手にすることが許されないというのだろうか?


「どんな気持ちでここまで来たんだろうな」


顔を歪めているメルディの頬に優しく触れながら、リッドは再度呟くように口にした。
ファラがその言葉に息を詰める。


「そうだよね」

「・・・・・・あのね、私」

「うん?」

「セレスティアに着いた時、どうしてここまで来たんだろうって、言ったでしょ?」


そうだった。
やっとの思いで光の橋を見つけ、僅かだったが同じ時を過ごした人と刃を交え、そして辿り着いた彼の地で彼女はポツリと呟いた。



『私、どうしてここまで来たのかな』と――。



「私、あの時分からなかった。レイスと戦ってまでセレスティアに渡ることにどれほどの意味があるのか。
それに、全く知らない未知の世界で私が出来ることなんて本当は何も無いんじゃないかって、急にそんな風に思えて。そう思ったら、インフェリアを離れた自分が可哀相で、分からなくなって。だからセレスティアに渡った時、本当は恐くて仕方なかった。でも…」


ごく小さな声で半ば独り言の様に話すファラの言葉に、リッドはただ静かに耳をすまして聴き入っていた。


「でもきっとメルディはもっと恐かった。本当に独りぼっちで、言葉だって通じるか分からないのに。それにもしインフェリアに来た目的が果たせなかったら?
クレーメルクラフトだって壊れちゃって、帰る方法だって確かに有るとは限らないのに」

「あぁ」

「なのにメルディは何時も笑ってた。お母さんと戦わなきゃならない事を忘れる時なんて無かった筈なのに。闇のフィブリルに脅える時だって有った筈だよ」


思えば彼女が何かに対して脅えていたことが確かにあった。
しかしその恐怖も脅えも彼女の笑顔に隠れてしまい、それほど深く強いものなのだという事に気付くことも出来なかった。
それが彼女の強さなのだと言えばそうなのだろう。
しかしそれが彼女の弱かった部分でもあったのだ。
それをひた隠しにしてこんなにまでなって戦ってきた。
それが彼女、それがこの少女、それがメルディなのだ。
リッドはそう思った。


「確かにメルディは強い、でも…」

「薬草の調合が終わったぞ」

「キール!」

「大きな声を出すなよ。メルディが起きる」


開け放しっぱなしになっていた扉の向こうから、調合済みの薬草を片手にキールが言った。
ベッドの上のメルディをチラリと見て苦々しそうに眉を寄せながら部屋の中に進む。


「ありがとう」

「これくらいなんでもないさ」


彼の手から薬を受け取り、ファラは安心したように礼を言った。
未だ眼を覚まさずにいる彼女の頭を優しく撫で、祈るような表情で薬を傍らに置く。


「でも、何なんだ?」

「え?」

「メルディは強い、でも。と言っていただろう」

「あぁ…」


キールの促しに、リッドは一瞬の間をとりそしてメルディの前髪を再び優しく梳きながら続けた。


「確かにメルディは強い、でもそれが弱い部分でもあるんだとも思うんだ。メルディは何もかもを自分の中に閉じ込めてここまで戦ってきた。
それは確かに強くなきゃ出来ないことだ。辛いことや悲しいことを自分の中だけに留めておくのは予想以上の精神を使うから。
でも反対にそれを言えなかったっていう弱さもあるんじゃねぇのかって」

「でもそれは仕方ない事なんじゃないの?お母さんにこんな目にあわされて、捨てられたも同然に放り出された子がこんなこと素直に言えるはず無いよ!
話したらまた独りになっちゃうかもしれないって思うのは当然のことじゃない!」

「そうかもしれねぇ。でも全部を隠してしまおうっていう処に弱い部分が隠れてる気がしてなんねぇんだよ」

「でも!!」

「やめろよ2人とも。どっちの意見も正しいさ。全てを隠してしまう弱さも、それでもここまで戦ってきた強さも確かにメルディにはある」


ファラの声に段々と熱が入っていくのを感じ、キールは強引に話を終わらせようと口を挟んだ。
言われた2人は口を閉ざし、ファラは気まずそうに俯いてしまう。


「メルディを守りたいんだよ」

「…え?」


言葉なく立ち尽くすばかりになってしまった部屋で、リッドはキュッと拳を握り締めて言った。


「言えなかった。言おうとしたけど出来なかったって言ったんだ」

「・・・・・・」


彼女がそれをどんな気持ちで言ったのか、それは自分達には分からない。
分からないけれど、それでも彼女がどれだけ苦しんでいたのかは伝わってきた。


『言いたかった、伝えたかった。この世界を壊そうとしているのは自分の親なのです、と。
でも、それを言ったら人は自分を捨ててしまうだろうから。こんなに優しい人たちでも、きっと離れていってしまうだろうから』


彼女の涙がそう言っていたようにも見えたから。


「守ってやりたいんだ」

「リッド…」

「バカを言うな」

「なっ?!」

「守ってやりたいと思っているのはリッドだけじゃない。僕もファラもそう思っているんだぞ」


彼女の前髪に触れる指が1本増える。
今はまだ硬く瞳を閉ざしたままのメルディに、3人は少しの不安を覚えてしまう。
何時この少女の身体を闇の力が飲み込んでしまうか分からない。
もしもそんな時が来てしまったらどうしたら良いのか。
言いようのない暗闇は、ただヒタヒタと広がってしまうのだ。
しかしそれでも…


「信じてるよ。メルディは絶対にこの力に負けたりなんかしない。負けそうになったら私が助けてあげる」


そう、彼等の思いは1つであった。


「当たり前だろう。誰が闇の力になんかメルディを渡すものか」

「リッドは?メルディのこと、守るんでしょ?」

「あぁ、当たり前だ。どんなことがあってもメルディは闇の力に飲み込まれたりしねぇ。そんなことさせやしねえ」

「うん。イケるイケる!!」


何時ものファラの言葉が出たところで、3人はクスクスと笑いあった。
ベッドの上の彼女はまだ瞳を開ける気配は無かったが、それでも何故かその表情が和らいだように見えたのが嬉しかった。
思い上がりかもしれないが、自分達だから彼女を救う事が出来ると思えた。


「さ!ご飯にしよう?メルディが眼を覚ました時、元気な笑顔で迎えてあげられるようにしなくちゃ」

「ファラは何時だって元気そのものじゃないか」

「何か言った?キール」

「何でもない」


すっかり何時もの調子に戻ってキールとファラはメルディを振り返りつつダイニングへと向かっていった。


「メルディの分、部屋に置いといた方がいいかな?」

「そうだな。目が覚めた時すぐに分かるところに有る方が良いだろう」

「うん、そだね。そうしよう」

ダイニングから聞こえる2人の話し声を聞きながら、リッドはもう1度メルディの前髪を優しく撫でた。
一瞬エラーラが優しく光ったような気がしたが、しかしそれを確認することは出来なかった。


「…メルディ、いつか全てを話せる時がくるさ。俺は絶対にメルディを独りになんかしねぇから、傷も暗闇もさらけ出せるような存在になってみせるから」


決意にも似た言葉を彼女にかけると、リッドはゆっくりとダイニングへ向かって歩き出した。
ドアの前まで来て、もう1度彼女を振り返る。



「今は休めよ。色々あり過ぎて流石に疲れただろ?俺らがいるから安心してくれ。メルディのことは絶対に守ってみせるからな」



眠る彼女にそう言うと、優しいランプの光りが射すように、ドアは開けたままにして部屋を出た。


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