一年前のあの日から、彼の心はずっともやもやしたままだ。


「はぁ、もうヤだ」

「えっ?!何?!なになに?!わたしもう何かしでかした?!」


忍術学園二年は組の生徒は今、実技授業の真っ最中だ。
そんな中珍しく乱太郎、きり丸の二人だけでペアを組むことになり、じゃあ行こうかと目的地の裏々山へ向かっている時の事だった。
ちなみにしんべヱは喜三太、金吾と組むことになっている。今頃どうしているだろう?
それはさておき、出発してものの数分できり丸から盛大に吐き出された溜息に、乱太郎はオロオロと辺りを見回している。
忍術学園に入学して二年、彼は自分がどれだけ巻き込まれ、巻き込み体質なのかを充分に承知しているようだ。


「んあ?あー、違う違う。ごめん」


キョロキョロと辺りを見回しまくっている乱太郎にそう言うと、また一つ盛大に溜息を吐いた。
そんなきり丸に、乱太郎はコテンと首を傾げる。そして


「えー?じゃあ何?何の溜息なのそれ。あ、分かった!また『こんな授業面倒くせぇ』とか言うんでしょ」


ポン!手の平を一つ打ってにこにこと笑う。そんな彼に

それだよ!それ!!

とは、きり丸には言えなかった。
実の所、自分でも何で最近こんなに頻繁に溜息が出るのかは良く分かっていなかったのである。でも今、一つだけ確実に言えることがある。


(その癖やめてくれ!!)


乱太郎の小首を傾げてものを考える癖。それを目の当たりにする度に、きり丸の心臓は一年前のあの日、初めて胸に違和感を覚えた日と全く同じ音と速さで動き出すのだ。


(息苦しいんだよ、本当)


そしてまた溜息を一つ。
ほんの少しばかり楽になった胸を撫で下ろす。


「まーた溜息、最近のきりちゃん溜息ばっかついてるんだから」

「これは溜息じゃない。深呼吸だ」


溜息と呼ばれるそれを繰り返すたび、弾け飛ばんばかりの心臓を落ち着かせているのだから間違いではないだろう。
でもここ最近は多すぎるのではないかと自分でも思っている。


「もう、最近本当に変なんだから。体調でも崩したんじゃないの?無理は駄目だよ無理は」

「半年以上も崩しっぱなしじゃ俺はここにいられないだろ」

「それはそうだけどぉ」


顔を合わせる度に盛大な溜息に付き合わされる乱太郎の身になってみれば、そんな風に思うのも仕方ないのかも知れない。
特にここ数ヶ月は、溜息の他にも乱太郎に対するきり丸の態度や言葉なんかが不自然極まりない状態になっていることが多かった。
変によそよそしくなってみたり、苛々をぶつけてみたり、一緒に笑っていたと思えば次の瞬間には機嫌が悪くなっているなんて事が多々見られる。
しかしそんな態度を取られ続けていても、それらに対して乱太郎が嫌な顔をしたことはなかった。
目の前にいる猪名寺乱太郎という人物は、実はものすごく出来た人間ではないのか?
きり丸は最近、本気でそう思っている。
さて問題の止まることのない溜息は始まって既に半年、いや、それ以上になるか。
先程の「もうイヤだ」発言に関して言えば、具体的に何かが嫌だったわけではない。
乱太郎の一つ一つにいちいち反応してしまう自分の心臓や血流に心底うんざりしただけの、所謂独り言というやつだった。
まさかそれが乱太郎の耳に入るとは思わず、オロオロしだしたその姿にまた溜息を吐く羽目になったが。
そもそもこの溜息、いや深呼吸だって明確にいつから始まったものなのかもう覚えていない。
気付いた時にはそれが出るようになっていて、それが今や当たり前のようになってしまっている。


(いやいや、でも半年前はこんなに酷くなかった、と思う)


ポリポリと頭巾の上から頭を掻いて、今は隣で地図と睨めっこしている乱太郎に視線を移した。そんな視線に気がついたのだろう、乱太郎が「ね、次のポイントはここかな?」なんて小首を傾げて笑う。


「っあー、もう・・・・・・」

「?????」


既に何回目かも分からない大きな溜息と共に、きり丸は熱くなる顔を両の手の平で叩いたのだった。





「心ここに在らず」

「いてっ!痛ぇって!もちょっと優しくできないのかよ」

「生憎ぼくは乱太郎みたいに優しくないからね」


きり丸の左肩に出来た一筋の切り傷を、少し乱暴な手付きで消毒しながら伏木蔵は言う。
さっきから何となく機嫌が悪いのか、彼の口から出る言葉には小さな棘が生えて見えた。


「乱太郎に気を取られて怪我した上に、心配する乱太郎にわざわざ用事を言いつけて一人で医務室にくるなんて本当きり丸って我が儘。土井先生と山田先生にもっと叱られちゃえば良かったのに」


言いながら塗り薬を塗って、それから少しキツめに巻いてやろうかという顔で包帯を滑らしていく。
それに視線で「やめろ」と言いながら、伏木蔵の言葉に返事をした。


「はぁ?何だよそれ、別に気ぃとられてたわけじゃねえよ」

「入ってくるなりデッカい溜息吐いて。何が原因で怪我したかなんて、きり丸の溜息の原因を知ってる人ならすぐ分かるよ」

「意味がわからん」

「―――あ、そ」


先程よりも鋭い棘を剥き出しにして、益々不機嫌な声で返事が返ってきた。


「はい終わり!乱太郎、きっと心配してるからちゃんと手当て受けてきたって言ってあげなよ。病気や怪我には敏感なんだもの。この間だって僕がちっちゃい傷作ったのを見つけて、すぐ手当てしなきゃ!って大騒ぎだったんだ。まぁ優しい乱太郎らしいけどさ。そんな乱太郎に心配かけるなんて許さないんだから」

「・・・・・・」


自分を攻撃していた棘が消えて、代わりに何ともいえない優しい何かが伏木蔵を包むのを目の当たりにし、きり丸の胸の奥に何かとても嫌なものがプツリと生じた。
優しい乱太郎、そんなの自分だって良く知っている。
いいや、自分の方が良く知っている。
耳の奥で必死に自分が叫んでいるのが聞こえた。
その声が聞こえでもしたかのように、伏木蔵は普段から暗いその顔色を益々暗くし、そして笑った。


「ねぇきり丸、乱太郎は優しいよね?」

「何が言いた」

「はい、じゃあね」


言いながらきり丸をさっさと医務室から追い出し、伏木蔵は本日一緒の当番である三反田数馬を備品の整理でもしながら待とうかと手を伸ばす。
しかし頬を膨らましながらその手をすぐに引っ込めた。


「結構大きい傷だったし、乱太郎に痛がる情けない姿を見せたくないからわざと一人できたんでしょ。何で気づかないのか全然分かんない。ぼく嫉妬しちゃう」


自分だって乱太郎が大事なのに。
同じ組で同じ部屋で、いつも一緒にいられるくせに、少し自分と向き合えばすぐに分かりそうなもんなのに、鈍感なまま乱太郎に心配をかけたりして。
考えれば考えるほど腹がたつ。


「次は何かスリルなことしてあげようっと」


フフっと口角だけで笑んで、今度こそ備品入れに手をかけたのだった。






トストスと軽く音を立てて二年長屋の廊下を歩く。
その音を何となく聞いていたら「忍が足音を立てるとは何事じゃ!」なんて一年生の時に学園長に言われたのを思い出して、わざと大きな音を立てて歩いてみた。
その足音の主に気付いたのだろう、同室の友がひょっこりと顔だけ部屋から出してこちらを見て笑っている。


「おかえりー、きり丸。乱太郎から聞いたよ、大丈夫?」

「おう、伏木蔵に処置して貰ってきた。お前こそ大丈夫だったのか?」

「だーいじょうぶだよ。途中のお店でお饅頭買って食べたの、先生にバレて叱られちゃったけど」


にこにこふくふくと笑うしんべヱに若干呆れながら、どこも怪我をしなかったなら良かったな、と返しておいた。
うっしょ、としんべヱの横に腰を降ろしながら部屋の中を見渡す。


「乱太郎ならまだだよ。ちょっと雷蔵先輩の所に行ってくるねって行ったきりまだ帰ってきてないの」

「ああ、俺が頼んだの。今日書庫整理の当番だったんだけど、怪我して医務室いくから遅れるって伝えに言ってもらったんだ」

「そうだったの。あれ、じゃあ行かなくちゃ」

「これで行く訳にいかないからなぁ、ちょっと着替えに寄ったんだ」

「あ、そっか」


上級生がしかけていた罠にひっかかり肩を怪我をした時に、制服が大きく裂けベッタリと血がついてしまったのだ。
いや、罠自体は怪我をするような危険なものではなかったのに、それを避けようとした時に斜めに切られた枝でザックリとやってしまったのだった。


「それにしてもきり丸がそんな怪我するなんて珍しいねぇ。何かあったの?」


授業中に買い食いをした残りか、はたまた部屋に隠し持っていたものか、饅頭を口に放り込みながらのんびりとしんべヱが問う。


「んー、いや?別に何も」


その饅頭を一つ勝手に自分の口の中にも放り込んで、もごもごしながらきり丸は答えた。


「そう?ぼく心配。きり丸ってば最近ずーっと心ここに在らずなんだもん」


どっかで聞いたような台詞だな。と思いながら、そうかぁ?とだけ返事を返しておく。それより今は代えの制服を発掘しなければ。


「そうだよ。何時もは結構冷静な方なのに、罠にかかっちゃうとかあんまりきり丸らしくない。どっちかって言うとそういうのは乱太郎の役目だもん」

「お前なぁ。乱太郎に怪我なんかさせたら駄目なの」

「・・・・・・うん」


実はしんべヱ、きり丸に極々小さな変化が表れたその日から何となくそれに気付いていた。
おっとりでのんびりな彼は、友達の変化には意外と聡い子であったのだ。
早く気づけると良いね。こっそりそう思ったのは内緒だ。
そんな会話を交わしながら、きり丸は敗れた制服をその辺に脱ぎ捨て、新しい制服を引っ張りだしてきてそれを羽織る。
キュ、と帯を締めた所で乱太郎が部屋に戻ってきた。


「あ、お帰り乱太郎」

「ただいましんべヱ。あ、きり丸もお帰り、ちゃんと手当てしてきた?」


怪我の具合が気になるのだろう、言いながらチラチラと肩を見ている。
乱太郎の心配そうな顔に、伏木蔵の言葉が重なって聞こえた気がした。
それに少し眉根を寄せれば、傷が痛むのだと勘違いをしたのか乱太郎が少し怒った口調で近づいてくる。


「きり丸?!ねぇ、ちゃんと手当てしてきたんだろうね?」

「あ?あぁ!ちゃんとしてきたって!伏木蔵の奴、もうちょっと優しく手当てしろって言っとけよ」

「伏木蔵?私もたまに手当てして貰うけど、そんな痛くしないでしょ?」

「・・・・・・」


乱太郎の一言を受けて一気に機嫌が悪くなってしまったきり丸に、しんべヱは何とも声をかけることが出来ずに頬を掻く。
そんな微妙な空気に気付かないのか、乱太郎がきり丸に向かってちょいちょいと手を招いた。


「ここ座って、はい。伏木蔵が手当てしてくれたんだから安心だけど、私からも一つ」


無言になってしまったきり丸を自分の目の前に座らせて、傷口があるであろう場所に制服の上からそっと手の平を当てる。
そして優しい優しい声で


「すぐに痛みが取れますように。早くきれいに治りますように」

「――!!」


祈るように目を伏せて囁いた。
そんな乱太郎の姿を目の前にした瞬間、きり丸の中からイライラとしたものが消え、代わりに一年生だったあの日からずっと続いている息苦しさと胸の重みが益々大きくなって訪れる。


「らん、」

「あのね」


思わず目の前の人の名前を呼びかけたその時、それに気づかずに乱太郎が微笑み話し出した。


「これ、伊作先輩に教えてもらったんだって、前に伏木蔵にやってもらったの」

「あ?」

「それからこうやって手当ての後にしてあげてるんだ。早く治るようにって、おまじ」

「っ、やめろ!!!!!!」


そんな話を嬉しそうにする乱太郎を見た瞬間、きり丸はもう何が何だか分からないけれど無性に腹がたって傷に添えられていた彼の手を強く叩いて落とした。


「きりちゃ」


突然のことに驚き過ぎて何が起っているのか分らないのか、瞳をゆらしている乱太郎が小さく名前を呼んでいる。
一瞬で冷えた頭の中に、今自分が仕出かしたことが流れて消えていった。
謝らなければ、瞬間にそう思った。
しかし身体がいうことを聞いてくれない。全然別の自分が耳の後でチクチクと言葉を紡いでいるのが聞こえてくる。


乱太郎が悪いんだ。
だって他の誰かにあんな風に触れて、触れられてたなんて許せない。
乱太郎の事は俺が一番知ってるはずなのに、他の誰かが俺の知らない乱太郎を知っているなんて許せない。
俺が一番乱太郎の傍にいるはずなのに。


一語一語、言い聞かせるようなねっとりとした音で紡がれるたびに、あの息苦しさが背後から近づいてくる気配がする。


俺が一番乱太郎に近いはずなのに!!!!!


最後の言葉が響いた瞬間きり丸の胸を襲ったのは、今までのどれとも全く違う、とてつもなく嫌な音と、とてつもない重みを持った痛みだった。


「お、れ、図書室、行かなきゃ」


そんなものとこちらを見据える乱太郎の瞳に耐え切れず、結局きり丸はその場から走り逃げ去ってしまったのだった。





ドッ!!―――



「ぅわっ」

「!!」


俯いたまま図書室へと走っていたきり丸は、そのままの勢いで何かに、いや誰かにぶつかってしまった。
碌に前も見ず、バタバタと忍者にあるまじき足音を立てていたきり丸はそのまま後ろにひっくり返る形で転んでしまう。
ドカッという大きな音が辺りに響き、それに驚いた生徒が何人か振りかえる。
目前であった図書室からも、音に驚いた図書委員長、六年生である不破雷蔵が顔を出してきた。
そしてひっくり返っているきり丸と、彼を助け起こそうとしている教員を確認すると慌てた様子で駆け寄ってきてくれる。


「だ、大丈夫かい?!きり丸、新野先生も!!」

「私は大丈夫ですよ。きり丸くん、大丈夫かい?すまなかったね」

「いえ、前も見ず走ってきた俺が悪いんス。すみません」


どうやらきり丸がぶつかった相手とは、忍術学園の校医である新野洋一先生であったらしい。これが学園長や安藤先生ならばまた何を言われるか分かったものではないが、温和で優しいこの校医はきり丸に怪我がないかと心配ばかりしてくれた。



「・・・・・・おや、肩に怪我をしていたんだね。きり丸くん、少し医務室にいらっしゃい」


助け起こした拍子にきり丸の顔が痛みで歪むのを見逃さなかったのだろう、そしてほんの僅か肩を庇うようにした動きすらこの校医は見逃さなかった。
優しい低音でそう言ってくれたが、自分はついさっき医務室で手当てを受けたばかりである。
見た感じ、動かした感じでは包帯が緩んでいたりだとか、傷口から大量の出血があるなどの異常は感じられないし、その必要はないだろう。
それに自分は書庫の整理当番なのだ、雷蔵と二人での当番であるため、自分が抜けてしまえば彼に迷惑がかかってしまう。
何よりあそこには今、伏木蔵がいるのではないか。


「大丈夫ですよこのくらい。得に異常もないみたいですし」


ヒラヒラと怪我をした方の手を振って笑うと、新野先生がチラリと雷蔵に視線を送る。それに雷蔵は頷くと


「きり丸、僕一人でも大丈夫だから医務室へ行ってくるんだ。見て貰っておくに越した事はないよ」


そう言ってきり丸の背中をポンと叩く。
それでも「大袈裟な!」とまだ医務室行きを拒んでいたが、新野先生に「ほらほら」と急かされると渋々それを承知したようだ、タラタラと歩きはじめるきり丸の背中に向かって、雷蔵は「終わったら戻ってきてね!」と声をかけて見送った。



さて、あっという間に医務室に再び戻ってくることになったきり丸は、何とも言えない気持ちのまま先に入っていった新野先生の後に続いた。
しかし予想していた声は一向にかかってこない。
はて?と顔を上げると、そこには伏木蔵の姿も、一緒に当番を務めているはずの誰かの姿もなかった。


「薬草をね、摘みに行って貰ってるんです。この時間は私が診られるからね」

「そう、ッスか」

「はい、それじゃあ一応肩を診せてね」


自分の目の前の床をポンポンと叩いて座るように促すと、大人しく着物を肌蹴させたきり丸の肩からゆっくりと包帯を外していく。


「これを巻いたのは伏木蔵くんかな?」


くるくるとそれを巻いて籠の中に入れると傷口を見る。
新野先生から零れた名前に、思わず腕の筋肉がピクリと動いてしまった。
この鋭い校医の事、それを見逃すはずもないだろう。


「ああ、やっぱりこの癖はそうでしょうねぇ。しかし少しキツかったかな。
と、良し。大丈夫そうだね。そうだ、包帯外してしまったし、さっきのを巻くのも何だから新しい包帯にしておこう」


言いながら再び薬を塗り直し、新しい包帯を巻き付ける。


「はい出来た。転んだ時にもどこも怪我はしていないようだし良かったよ。あとは、そうだね」

「何です?」

「きり丸くん、乱太郎くんと何かあったのかな?」


まさかこの人からその名前が出てくるんて思わなかったきり丸は、返事をすることも出来ずに表情を強張らせてしまう。


「ほら、乱太郎くんって保健委員だろう?前に、最近きり丸に元気がないんですって溢した事があってね」


顔を強張らせたままで何も言わなくなったきり丸に、新野は静かに笑う。


「それに雷蔵くんも、何だか乱太郎ときり丸に元気がないんですって言ってたことがあったから」

「乱太郎?」

「そう。雷蔵くんもね、それとなく聞いてみたんだそうだよ。でも、そんな事ありませんよって笑っていたって、そう言ってたね。だから何かあったのかなと思って」

「・・・・・・」

「いいかいきり丸くん。きり丸くんも乱太郎くんも今十一歳だ、これから心も身体もどんどん成長していくだろう。でも、その心の成長が上手くいかない時だって当然あるんだよ。何だか良く分らない感情に振り回されたり、意味もなくイラついたり悲しくなったりね。そんな時は我々大人の出番だと思うんだ。私たちは君達よりほんの少し多く経験がある、経験があるということは話を聞くことが出来る。そして、話をきくことができたなら、手助けが出来るかもしれない」


耳に優しく低い声が響いてくる。
いま、きり丸の瞳には部屋を飛び出す直前にみた乱太郎の表情だけが鮮明に映し出されていた。
驚いて、叩かれた手を下ろすこともなくこちらを見つめていた。
あの後彼の表情はどのように変わったのだろう?
泣かせたか、怒らせたか。
呆れさせたか、もう嫌だと思わせてしまったりしただろうか。
思わずだろう、きり丸は真っ白になって色が無くなるほどに拳を握り締める。


「・・・・・・おれ」

「はい」

「おれ、あんな事するつもりじゃ―――!!」


違うんだ、あんな風に手を叩き落すつもりなんてなかったんだ。
本当は「ありがとう」って笑って言ってやりたかったんだ。
優しく手の平を当ててくれた事も、心から嬉しかったんだよ。


「でも……」

「大丈夫。きり丸くん、乱太郎くんならちゃんと分ってくれるって、君だって本当は分っているでしょう?」

「あいつ、優しいから」


いつだって、何があっても最後まで一緒にいてくれる奴なんだ、猪名寺乱太郎というヤツは。
泣きそうな顔で言うきり丸に「それ以上握り締めたらいけません」と固く握られた拳を解かせる。
そしてポン、ポンと数回背中を叩いて


「きり丸くんは、とても尊い感情を手に入れたんですねぇ」


穏やかに言う。自分の言葉はまず要領を得ないものだったと思うのだが、この校医は何かに気付いたように優しく笑んでいた。


「?」

「すぐには分らないかもしれないね。それはとっても尊いものですよ。大事に、大事にすると良い。おや?あぁきり丸くん、仲直り、すぐに出来そうですねぇ」


医務室の戸を眺め、にこにこと笑う新野が言い終わるか終わらないのタイミングで、それは勢いよく開かれた。


「きり丸っ!!」

「らんたろ・・・・・・」

「廊下で転んだんだって?!図書室から帰ってきた庄ちゃんに聞いたよ!肩の怪我は大丈夫なの?どこも打ってない?捻ったりとか、擦りむいたりとかしてない?どこも痛くない?」


自分の名前を叫びながら勢い良く医務室に駆け込んでくると、おろおろと、眉を目一杯下げてあちこち確認を始める。


「こらこら、乱太郎くん。きり丸くんなら大丈夫ですから」

「あ!新野先生、すみません。何か心配で焦っちゃって。先生が診てくれたんですか!じゃあ絶対安心だね」


新野に窘められ、恥ずかしさから顔を赤らめてピョコっとお辞儀をすると、きり丸に向かっていつもと全く変わらない瞳でにっこりと笑う。


「さて、乱太郎くんが迎えにきたことですし、きり丸くんももう行って大丈夫ですよ」

「ありがとう、ございました」

「失礼しました。きりちゃん、大丈夫?」


立ち上がろうとしたきり丸に手を差し出して、乱太郎がコテンと首を傾げる。
その瞬間、心臓がドックンと大きな音を立てたが、それは先のような嫌な音でも強さでもなかった。
そのまま伸ばされた手を取って、胸を打つ早鐘を感じながら立ち上がる。
出てきたばかりの医務室の戸を乱太郎がしっかりと閉じたのを確認して、いつもよりも近い距離のままで歩き出す。


「図書室にいくんだよね?私、そこまで付き合うね」

「え、いや」


大丈夫だと言いかけたまま、医務室で掴んで離すことが出来ない手を見つめてきり丸は「あ」と短く声をあげた。
それに反応して乱太郎が振りかえる。
どうしたの?とこちらを見つめる乱太郎の手を引いて、少し早足で長屋の部屋に向かった。


「きりちゃん?図書室はあっちだけど」


どうやら彼が長屋の自分達の部屋に向かっているらしいということに気付いた乱太郎が、自分を引きずるように歩くきり丸に尋ねる。
しかし、結局きり丸はその問いに何の言葉も発することなく自室の戸を開くと、そのままそこへ入り戸を閉めた。


「おかえりなさい、きり丸、乱太郎」


そこには当然同じ部屋を使用しているしんべヱがいて、手を繋いで帰ってきた二人に嬉しそうに「おかえり」と声をかけた。
きり丸はそれに「ただいま」と返事をすると、繋いでいた乱太郎の手をパッと離し床にドッカリ腰を降ろした。そして次の瞬間、ガバリと勢いよく乱太郎に向かって頭を下げる。


「乱太郎、手叩いたりしてごめん!本当にごめん。あと、心配してくれて、ありがとう」

「え、え、ちょっと!きりちゃん!!やめてよ」


自分に向かい床に頭をこすり付けて謝るきり丸に、乱太郎はやめて!と言いながらアワアワと両の手の平を振る。
それでも中々頭をあげないきり丸に、慌てて傍にしゃがみこんだその瞬間、乱太郎の手をきり丸の手がしっかりと掴んで包み込んだ。


「本当にごめん。乱太郎の手を叩き落すつもりなんてなかったんだ。本当は、ありがとうって言いたかった。でも、何か色々ぐちゃぐちゃになって、思わず」

「……うん、大丈夫。謝ってくれてありがとう。きり丸が何ともなければ良いよ」


そう言って笑う乱太郎に、きり丸は嬉しいやら拍子抜けするやら。


「お前はちょっと出来すぎてるんじゃないのか」

「そうかな?だって私怒ってなかったし。そりゃビックリはしたけどね」


そう言って笑う顔は、本当にいつもと全く変わらない。

-あぁ、この顔が好きだ。

きり丸の胸にストンと何かが落ちてきたその時。


「それに私、きり丸のこと好きだから」


にっこりと、花が綻ぶ笑みでその人は言った。


「っ―――」


ほろりと言われた乱太郎の言葉は、その響きや音の優しさに反してもの凄い衝撃できり丸の顔やら胸やらにぶつかって体中にしみ込んだ。
一瞬にして耳を塞ぎ、視界を奪われる。
どこか遠いところでまだ乱太郎が何かを言っている気がするが、それらが脳内に届かない。


「きり丸、聞いてなくない?」


それまで黙って二人のやり取りを見守っていたしんべヱだが、きり丸が本格的に心ここに在らずになってしまったのを見て乱太郎の肩をチョンチョン、と突く。


「え、あれ?きり丸?ねぇ!!」

「っ!!、はぇ?!」

「もう!だから!大好きな友達だから、早く仲直りしたかったの!!」


――― ツキリ


「おう、うん」

「ちょっとー!本当に聞いてる?!」


瞬間、先程までの衝撃の変わりに妙に小さく心臓の奥を傷つけられたような痛みを感じて無意識に胸を擦っていれば、ところできり丸は図書室に行かなくて良いの?としんべヱがのんびりと言う。


「あっ、そうだよね。わたし、図書室まで一緒に行くね」

「大丈夫なのに」

「良いから、しんべヱも行こうよ」

「うん」


そして三人揃って部屋を出る。
数歩進んだところで「きりちゃん」と乱太郎に名前を呼ばれた。


「きりちゃんの怪我、ちゃんと治るまでわたしに手当てさせて?わたしは保健委員だからやり方も分ってるし、毎日医務室に行くの面倒でしょ?」

「え、良いのか?」

「もっちろん!任せて!!」


パァ、と満面の笑みでドンと胸を叩く乱太郎の姿に、きり丸はほんの少し間を置いて、そして小さな声で


「そん時は、あのおまじない、してくれよ」


そう告げた。


「!!、うん、うん!任せて、たっくさん思いをこめておまじないしてあげるからね!」


一段とキラキラした笑顔で、きり丸の手としんべヱの手をとって歩き出す。
「良かったね」というしんべヱの言葉にも、キラキラの笑顔で「うん!」と力強く頷いていた。
そんな乱太郎の姿に、きり丸はついさっき落ちてきた何かが大きく広がっていくのを感じる。

この顔が好きだな。 ―好き、だな。

優しくて柔らかい何かに包まれるように、ただただそんな気持ちだけが湧いては積もる。
そういえば、少し前まで図書委員長をやっていた先輩に「読んでみろ」と半ば押し付けられるように薦められた本にこんな描写がなかったか。
それを、本の中で一体何と呼んでいたのだったか。
その本の中で、主人公である青年はそれに何と名前をつけていたか。
暫く考え、やがてその答えに辿り着いた。

あぁ、そうだ。
この気持ちに名前を付けるなら、それは『戀』というものだ。
そう彼は言っていた。

そのときもう一度、きり丸の胸の中で、すとん。と何かが落ちる音がした。


(新野先生、俺、思ったよりも早く知る事ができましたよ)


小さく笑ったきり丸に気付き、乱太郎もつられて嬉しそうに笑っていた。



これが二年目の九月。秋海棠が咲き誇る頃、きり丸が自分の恋を初めて自覚した時のお話だ。


秋海棠(シュウカイドウ:片思い
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