「・・・・・・」

しんと静まり返った家のなかをキールはそわそわと歩き回っていた。
あっちを見て、こっちを見て、忙しなく動く彼の瞳は、目的のものが見つからないと分かるとあからさまに落胆の色を見せる。
それと同時に、若干の焦りも。
朝から研究に没頭していたのだが、部屋のなかが暗くなって来て本が読みづらいのに気づいたのが最初の異変だった。
おかしい、何時もならば自分の部屋は何時でも明るいはずなのに…どうして今日に限ってこんなに暗いのだろう?
思ったところでハッと気づく。
そうだ、何時も彼女が明かりを点けていてくれたのだ。
彼女は研究に没頭すると周りが見えなくなってしまう自分の性格を良く知っていたから、外が暗くなり始めるとソッと邪魔にならないように気を遣いながら、部屋に明かりを入れてくれていたのだ。
それがどうしてか今日は無かったようだ。
読んでいた本を一旦閉じて、身勝手ながら文句の1つでも言いに行ってやろうかと自室を出る。
そこでまた次の異変を見つけてしまう。
何時もならこの時間には夕食の支度をしているはずなのに、空腹に気付かせてくれる良い匂いも、食器や調理器具を弄る音の1つも聞こえて来ない。
そればかりか家中の明かりが全て消えていて、空気はシンとした静寂を伝えてくるばかりだ。
何時だって何かしら音を口ずさんでいる彼女がいるならば、こんなに静かなのは有り得ない。
というか、彼女が居るのならば家中の明かりが消えている事など到底有り得ない。
とすれば、導き出される答えは1つ。

『彼女はこの家に居ない』

しかし、一体何故?
今まで自分に黙って出掛けて行く事なんて1度も無かったのに、もし自分が居ない時に出掛けるのであれば必ず置き手紙がしてあったはずだ。
いや待て、今日自分はこの家から1歩も出ていない。
ということは、出掛けるならば絶対に自分に声をかけて行くはずだ。
しかし、声をかけられた覚えはない。
でも彼女が突然消えるなんてこと考えられないし、やはりここは出掛けたのだろう。
そわそわする気持ちで無理矢理そう結論づけて


「全く、黙って出掛けるなんて非常識じゃないか。何を考えているんだアイツは」


と乱暴な言い方で溜息をついた。
そして一旦忙しなく動かしていた瞳を止めると、次々に浮かんでくる嫌な考えを振り払うようにわざと眉間にシワをつくって見せる。
しかし以前の彼ならば誰が何処へ出掛けていようと気にすることも無かったはずで、結局そこだけは隠せるはずもなく、強がって放った言葉がメルディが居ないことがどれだけ彼に影響を与えているのかを物語っていた。


「まぁ、もう少ししたら帰ってくるだろう」


ゆらゆら揺れる不安定な気持ちを落ち着かせるように言うと、何事も無かったと言い聞かせるように自室に向かう。
研究の続きでもしていれば、ひょっこりメルディが帰ってくるだろう。
そう考えてデスクに向かったのだが、彼女がこの家に居ないということが脳裏をかすめ、資料を手に取っても望遠鏡を覗いても頭に入ってこない。
心や体がそわそわし、不安や苛々が募って何も手につかないのだ。


「くそ・・・・」


そう呟いて、研究に没頭するんだと自分に言い聞かせるが、結局それも上手くいくことはなかった。
それから長い時間、形だけ手にした研究資料を膝に置き、刻々と過ぎていく時を過ごす。
空はいつの間にか夜から深夜へと姿を変え、近くの家々からも明かりが1つ、また1つと消えていく。
それを憂鬱な気分で眺めつづけ、気付けば時間は既に午前3時を回ってしまっていた。


「一体どうしたんだ」


もう少しすれば帰ってくるだろうといい聞かせていたが、こんな時間になってもメルディは帰ってこない。
彼女に何かあったのだろうか?一瞬そんな思いが掠めたが、ふるふると頭を振ってそれを否定した。
そんな良くない事ばかり考えていては駄目だ。自分に言い聞かせて椅子に座り直す。
きっとあのメルディのことだ、また何処かで寄り道でもして遅くなっているに違いない。


「早く帰ってこいよ…」


もはや強がりを言うだけの余裕も無く、キールはその場で力無く項垂れ掌で表情を隠すのだった。
それから一体自分が何をしていたのかは全く記憶に無い。
ただデスクの前に座り、やけにゆっくりと進む時間をただひたすら数えていたような気もする。
その後メルディが帰ってくる気配は全くなく、シンと静まり返った家の中がとてつもなく広く寂しく感じた。
何時もならこの時間は彼女を腕に閉じ込めて小さな寝息を感じていたはずだとか、自分が喉の渇きで目を覚ませば、彼女も目を覚まして飲み物を持ってきてくれたはずだとか、そんな用事でメルディがベッドから離れることが覚醒しない頭でも何だか嫌で、言葉にすることもなく彼女の腕を取って引き止めたりすることとか、そんな事ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消え、とうとうキールはデスクに突っ伏してしまった。
突っ伏したまま顔を上げることも出来ず、一体メルディは何処に行ってしまったのかと再び苦しい迷宮に捕われてしまう。
ぶんぶんと頭を振ってそこから抜け出すように椅子から立ち上がると、傍に置いてあった時計に眼をやる。
時間はすでに4時半を回っており、気が付けば窓から見える風景はいつの間にかうっすらと明るくなっていた。
すれ違いになってはいけないとこれまで家の外に探しに行くのは躊躇していたキールだったが、流石にこんな時間になってしまったのではそんな事も言っていられないかもしれない。
自分が研究に没頭してしまってから一体彼女が何時居なくなってしまったのかは分からないが、キッチンの食器がそのままになっている事から考えても少なくとも昨日の昼過ぎからメルディは居なかった事にはなるだろう。
それがこんな時間まで帰って来ないなんて、普通じゃない。
そこまで考えて

――このままメルディが帰ってこなかったら・・・

一瞬そんな事が脳裏を過ぎる。

ゾクリ・・・・・・

瞬間背筋を走る寒気に、キールは思わず服の胸元を握り締めた。
どうかしてる。彼女に限ってそんな事が有るはずない。そう思い直すが、今まで考えないようにしていた思案の糸が『彼女が帰って来ない』という最悪の結末に繋がった時、それはプツリと音をたてて切れた。
同時に押さえ込まれていた不安や恐怖が一気に溢れ出し、目頭がジンと熱くなってうっすらと視界がぼやけていく。
こんな事でどうするんだと言い聞かせてみても、勝手に溢れてくるそれをどうすることも出来なかった。
もしも彼女を失ってしまったら。
それを思うと身動きさえ取れない。


「メルディ ―――」


いつの間に自分はこんなに彼女に依存していたのだろう。
それすら分からないくらいにメルディが居ないと駄目だ。
彼女が居ないなんて耐えられない、彼女が居ない世界はこんなにも暗い、寒い。
この空間に居ることすら耐えられなくなって、キールは家の外に飛び出すと、目の前に続いている1本の道を走り出した。
アイメンから出るにも外から帰るにも、この道を通らなければいけない。
ならばメルディもこの道を通ったはずだ。もしかしたら帰ってくるメルディに会えるかもしれない。


「メルディ、何処にいるんだ」


帰って来ない愛しい少女を探して、キールは必死で走り、彼女の名前を呼び続けた。
そしてとうとうアイメンの街から少し離れたところで体力の限界が来たのか足が止まってしまう。
元々あまり体力の無い自分だったが、今日ばかりはそんな自分に嫌気がさした。
もっと遠くまでメルディを捜しに行きたいのに、早く先に進みたいのに、思うように体が動いてくれないばかりか自分はこんな所でへばって今にも座り込みそうになっている。


「メルディ・・・・・・」


会いたい。
そんな気持ちで絞り出すように彼女の名前を呼んだ。
その時


「はいな」


耳に慣れた声。
鈴を転がしたように可愛らしく、自分の中にすとんと入り込んでくる優しいこの声。
声の主を確認しようと、ぜえぜえと肩で息をし前屈みになっている状態から顔だけを起こす。
しかし調度朝日が上る時刻だったのか、目の前に立っているその人の顔は逆光に照らされて確認することが叶わない。
それでも自分からほんの少し離れた場所に立っているその人影は、キールには良く見覚えがあった。
高い位置で2つに結ばれた豊かな髪、ふんわりとした服のシルエット、それは仲間から聞いて、自分も見てみたいと思ったことがある彼女の服。
そこから折れそうなほど細い手足が伸び、前屈みになっている自分よりも少し高いだけの身長と小さな顔がある。
その姿を眼にしたキールはこれ以上ないというくらいに眼を見開いて、次の瞬間には目の前にいるその人の元へと走り出していた。
自分と少女の距離は僅かなものの筈なのに、今のキールにはそれがもどかしいくらい遠い距離のように感じる。
必死で動かしているつもりの手足も、何だか上手く動いていないような気さえした。
それでも限界まで伸ばした腕が微かに少女に触れると、キールはその人が自分の名前を呼ぶ時間でさえも待てないと、そのままの勢いでその小さな体を自分の方へと力一杯引き寄せ、そして抱きしめた。
力任せに引き寄せ抱きしめたものだから、体力の限界まで来ていたキールはそのままヘタりと座り込んでしまったが、それでも少女を抱きしめる手だけは決して離しはしなかった。


「キール?」


自分の名前を呼ぶその声に、彼女の肩口に埋めていた顔を、彼女には見えない程度に上げる。


「一体何処へ行っていたんだ!こんな時間まで帰って来ないなんて非常識だ!!」


次の瞬間口をついて出てきたのは相変わらず素直ではない言葉だったが、そんな言葉にも腕の中の彼女はたじろぐことは無かった。
そればかりか、キツく抱きしめる自分の背中に、同じように腕を回して抱きしめ返してくれる。


「心配かけてごめんな?キール」


縋り付くような抱擁に、少女、メルディは小さくキールの耳元で囁いた。
それを聞いたキールは、抱きしめる力をいっそう強くして再びメルディの肩に顔を埋めた。


「お前がこのまま帰って来なかったらどうしようかと思った」


先程まで感じていた最大の恐怖を口にすると、その存在を確かめるかのようにメルディの髪を撫で、埋めていた顔を上げメルディの瞳を覗き込む。
彼女の柔らかな頬を指先で確かめ、霞む視界を隠すように口付けた。
唇に感じる温かさは何処までも優しくて、彼女の存在が嘘ではないと証明してくれる。
それがとても嬉しくて、少し切なくて、夢中で彼女の唇を吸った。
そうして時間が経つのも忘れて口付けてやっと心が落ち着いた頃、キールはようやく腕の力を緩めることが出来た。


「黙ってどこかへ行くなよ」


先程緩めたばかりの腕に再び一瞬の力を込めて言うと、言われた本人は何故か頭に『?』を沢山浮かべた表情をしている。


「お前が僕に何も言わずに出掛けるからこんな事になったんだ。次からは何処へ行く時も僕に告げるか、書き置きをしていけ。それが出来ないなら僕が着いて行ってやっても良い。分かったな」

「わ、わかったケド、でもキール忙しいし」

「お前の用事についていく事が出来ない程忙しいわけじゃない。それに少しばかり休んだ所で僕の研究に問題が起きるわけないじゃないか」

「は、いな。そだな、うん。分かったよ」

「なら良い。もうこんな思いをするのは沢山だ」


メルディの返事を聞いて安心したのか憎まれ口を叩く余裕さえ生まれ、まるで先程までの姿が嘘のようだ。
しかしそんなキールに、メルディは未だ『?』を浮かべたままでいる。
どうしてキールがあんな所に居たのか、まるで世界が終わってしまったかのように真っ青な顔をしていたのか、そして自分を見つけた時、見えないようにしていたようだが涙を浮かべていた、全てが謎のままだ。
しかも黙って出て行ったとは?


「なぁキール、黙ってどこかへ行くって?」


分からないのなら聞くのが1番。メルディは素直に口にした。


「何を言っているんだ。昨日の夕方、部屋に明かりが点いていないから変だと思ったらお前が居なかったんじゃないか。キッチンの食器もそのままで、だから僕は」


あの時の事を思い出し、キールは再びメルディをキツく抱きしめた。
すると


「メルディ、ちゃんとキールに言ってったよぅ」


苦しいくらいに抱きしめられたまま、メルディはキールの顔を覗き込むようにして言う。


「は?」


なんだって?と再度言うように促すと、メルディは困ったような表情になってしまった。
それでも腕の中から離すことはせず、緩く腰辺りで自分の指を組んでから彼女の顔を再度覗き込む。


「メルディ、ちゃんとキールに言って行ったよ。ガレノスは体調崩してタイヘンだからちょっと行ってくるよって。食器はそのままにして行くけど帰ってきたら片付けるからゴメンな、なるべく早く帰ってくるよって。キールは何か読んでたけど、ちゃんと返事してくれた」

「え」

「聞こえてなかったか?それなのに返事するなんてキール凄いなぁ!でもそっか、今度からキールが何かしてる時は書き置きもしてくことにするよー」


ニコニコとしながら言うメルディに、キールは頭痛を覚えずにはいられなかった。
それはつまり、メルディはちゃんと自分に告げて行ってくれていたわけで、それを自分は研究に没頭するあまりろくに聞きもせず、あまつさえ生返事を返してしまったと。
そして彼女が出掛けて数時間後、そんな自らの失態に気付くこともなく、彼女が自分に黙って何処かへ行ってしまったのだと焦り、ほんの僅かでも怒りを覚え、右往左往していたと。


「何をやっているんだ僕は・・・」


あまりにも情けない事態にキールはがっくりと力を落とし、メルディの頭に額を付ける形で項垂れてしまった。
自分が引き起こした事態だったとは、それでは先程の言い分はメルディに対してあまりに失礼なものである。


「ごめん。僕がちゃんと聞いていなかったせいだ。それなのにあんな言い方をしてすまなかった」

「謝ることないな。これで1つ勉強になったよー、キールは何かしてる時は直接告げることと書き置き、両方していくこと!これで完璧だよ」


一方的に彼女を責める言い方をしてしまったのに、メルディはそんなの全然気にしていないと笑って言う。
彼女のこういう所は本当に凄いと思える。
もしこれが逆の立場なら、きっと自分はもっと彼女を責めてしまうだろう。
まぁ、メルディが自分のような言い方をするとは思えないし、ましてや大事な用件に対して生返事を返すなんてこともないだろうが。
やはり僕は駄目だな、と苦笑を浮かべて、次はこれで完璧!と笑っているメルディを抱きしめ直す。
そして


「いいや、やはり僕も連れていってくれ。僕はメルディと離れるとどうにかなってしまいそうだからな」


そう告げてメルディの耳に小さくキスを落とした。

昨日、今日と彼女がいない時間を過ごして良く分かった。
どうやら僕は、メルディがいないと好きなはずの勉学や研究さえ出来なくなるらしい。
そればかりか、呼吸の仕方まで忘れてしまうかもしれない。


それくらいメルディに溺れてる。


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